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森の日記―――書を捨てて森に入ろう
平成22年8月3日
今日の森では、高いところの風が強いようで、瀬の高い樹の上の方がわさわさしていた。「おいで、おいで」とされているような感じで、ついたら「ここだよ」と手を振っているみたいでした。友だちの樹です。
ところで、金子みすずの詩の一句「みんな違って、みんないい」ということばは、多くのひとが知っていると思います。埋もれていた詩人の作品として、最近になって発見され、国語の教科書に載るまでに有名になりました。
ぼくも、どこかで読んで、いいことばだと思っていました。ひとはそれぞれ違うだけで、そこに価値を加えて、優れているか劣っているか、美しいか醜いか、高貴か卑賤かなどの差別をしてはいけないのだ、そんなことをいっているのかと思っていました。
昨日、もう一度全文を読み返しました。その詩の題は「小鳥と鈴とわたし」です。著作権の関係で全文を引用することはできないのですが、それを読んで驚いたのは、彼女が比較していたのは、人間どうしではなくて、自分と動物と人工物(物体)とだったのです。そして小鳥のように羽ばたけないけど、鈴のように美しい音を出せないけど、と述べた後に、「みんな違って、みんないい」と結んでいるのです。
彼女の生涯は、結婚した男性が失業して放蕩し、彼女に性病をうつすし、詩作を発表するのを禁じるし、で、結局離婚するのですが、こどもを夫に取られてしまい、「こどもを返してほしい」という遺書を残して、服毒自殺をしています。享年26歳でした。
ぼくは思いました、この詩の悲しさ。「はばたけない」と嘆き、「歌えない」と嘆き、それでも、わたしは「みんな違って、みんないい」と書きとめたのではないでしょうか。
ぼくは文芸批評家ではないので、このことを立証するために資料を探したりはしません。しかし、少なくとも、彼女が比較しているのが動物と物体であるということは、はっきりさせておくべきでしょう。そして、小鳥や鈴というように、ある意味、いかにも女性が好みそうな対象のなかに、草花が入っていないことに気づいてもいいのではないでしょうか。
ぼくは、なぜ、彼女がもう一段落使って、草花とわたしを比較しなかったのだろう、と考え込みました。疑問がうまれて、考え続けて、24時間たちました。それがようやくいま、思いつきました。彼女にとって「わたし」は、草花だったのではないでしょうか。
植物は大地に生えて動くことなく、風や太陽や雨によって、それから人の手によって育ち、そしてまた簡単にしおれたり枯れたり、踏まれたり手折られたりする生物です。弱いように見えますが、その生長することで姿を変えていく生命は、人間のちょっとした生涯などと無関係に、地球の大部分の大地や海に拡がって生きています。
生存競争をするのは一部の動物と人間たちであって、「わたし」が植物であって意識があったとしたら、おそらくは「みんな違って、みんないい」と語ることでしょう。

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