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森の日記―――書を捨てて森に入ろう
平成22年8月5日
いつもの森の友だちの樹は、ちょっと愛想が悪くて、どれだったか見つけるのに困った。昨日行かなかったからだろう。それでふと10度ばかり左を見ると、はずれて並んでいる3本の背の高い樹がみえた。とても似ている3本の樹で、一番上の「お兄さんの樹」がしきりにぼくに手を振っていて、真ん中の末っ子や左の次男の樹は、恥ずかしそうに振っているように見えた。ぼくはうれしくなって、「風と樹とわたし」という詩を書こうと思ったくらいだった、題名しか思いつかなかったけれども。風がふくから樹がゆれるのではない、樹が揺れることと空気とわたしの関係がもっと重要だと、結局は抽象的に考えてしまった。近づくと、すごく立派な幹の持ち主たちだったが、下の方の枝はすっぱりと切られてしまっていた。
 
樹と風は、互いに触れ合っているのであって、一方が他方を揺らして、揺らされたものが悲鳴のようにして音を出すのではない。音は、樹が出すのか、風が出すのか考えてみよう。
あと、気づいたのは、シダという古代的な植物の葉っぱ、小さな葉がずらっと並んで、全体がその小さな葉っぱと同じような形になっている。おなじ小さな曲線を集めて同じ形の大きな曲線ができてくるというのは、フラクタル幾何学というのですが、その典型なのかなとふと思った。だけど、分子から星まで、そんな相似の関係がすべての自然にあると考えたフラクタル賛美の思想家たちに対していいたい、シダのどんな小さなひとつひとつの葉っぱも、少しずつ形が違う。そんな論理は自然のなかにはない。

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